『大切な人が亡くなった時のとある遺族の気持ち』emotion of the bereaved

雑記

まず、連絡があってから火葬が終わるまでは忙しくてあっという間です。
病院に駆けつけて死亡確認した後、親族や職場、学校、保育園等に連絡。
業者の方とその後の打合せをして、必要な物の準備と弔問客の対応に追われ、棺の蓋を閉める直前に少しだけ考え事ができる程の時間が取れて、いろいろな片付けをしたら帰宅。

そして翌日から日常生活が再開します。

まず、事実が理解できなくて混乱状態です。

鳥の囀り、虫の声、車の走行音が、とてもよく耳に入ります。『この世』を強く意識します。空や緑の美しさに驚きます。

目まぐるしい毎日に加え、やらなくてはいけない手続きが山程加わるので、徐々に状況を認めざるをえなくなります。あらゆることが無意味と化して、心の穴がどんどん広がって、頻繁に虚無感に襲われるようになります。美味しいものを食べても、綺麗な場所を散歩しても、何をしても埋まらないことに気付きます。ただ、子供たちの無邪気な笑顔が、生きる気力を与えてくれます。

家族は、良いところも悪いところも全てが愛おしく、失ってしまったら、自分が抜け殻になってしまう事に気付きます。人生のむなしさを紛らわしながら、ただ時間を過ごしているだけの生活になります。

生きるって何だろう。ある肉体を借りて、この世を過ごすことだ。ただこの時ここにいるだけ。
生きる意味って何だろう。夢とか目標とか信念とか言っていた時もあったけど、それは全然特別なものではない、ただ時間の過ごし方の1つに過ぎない。意味があるように見えて、無意味なのだ。
私にとっての唯一の生き甲斐は、大切な人の存在。だから、失った時には、生きる意味も同時に失ってしまうのだ。人間誰しもいつかは必ず死ぬ。きっと自分が死ぬ間際に、大切な人達を思い浮かべたり見たりして、自分が生きた意味を深く実感するだろう。私は、この人生で素晴らしい家族や友人と巡り会えていて運がいいとつくづく思います。

お父さんはどうだったかな。

私にとって必要な存在を失ったけれど、その必要性というのは能力的なものではなくて精神的なもの。父は私が自力で生きていける様に育ててくれた。
今、子供達は私を必要としているけど、いつか子供達が自力で生きていける様に育てる責任を全うしなければならない。困難な事が起こっても頑張り続けることができる勇気と力を私は既に両親から受け取っているんだ。反抗した時も失敗した時も変わらずにずっと愛し続けてくれたんだ。私の命を自分自身も大事にしていこうと思います。父の様に最後まで生ききった時は早速天国の受付窓口に問合せをして天国のどこかに住民票を移した父をたずねようと思います。

とはいえ、落ち着こうといろいろ努力をしますが、不可能な願いばかり無駄に考え続けて苦しくて、涙ばかり出るのに悲しみが一緒に流れていかないのです。まだ父が生きている錯覚をします。いつも通り電話をかけたら出る気がするし、父の家に『ただいま』と言いながら訪ねたら『おかえり』と言ってくれそうです。今度一緒にあの公園に行こうとか考えてしまいます。私にとって一番の話し相手を失いました。私の人生に欠かせない人を失いました。

生きるという事は、ただ、草や木や空を眺めたり、鳥の囀りや虫の声に耳を澄ませたり、植物や空気の匂いを嗅ぐことだ。普段見過ごしがちな世界の美しさや人の愛おしさこそが大きな幸せだと思います。